2年前の3月25日。
ふだん通りに出勤して朝礼の最中に、ウチのチームの外線が鳴りました。始業前でも外線が入ることもあるチームに所属していたので、気の早い連絡が入ったのかなと思っておりました。
当時のリーダーが、こちらを向いてしきりに目配せします。その頃抱えていた案件で、始業前に連絡が入る可能性のあるものがあったので、その連絡かと思い電話を受け取ると、リーダーが耳もとで「お母さんからだよ」と告げました。
「心肺停止状態で救急搬送された。今から帰ってこられる?間に合うかどうか判らない」と、母が喋っているのが遠くで聞こえました。
それから、無我夢中で会社を飛び出し、新横浜から新幹線で大阪に向かいました。
弟に連絡がつかないというので、メール連絡と同時に甥に連絡し、何が何でもお父さんに連絡を取れと指示を出し、娘と息子にも連絡を入れます。
新幹線が静岡にさしかかる頃だったかな。「旅立ちました、9時45分でした」と弟から連絡が入りました。結局、誰も間に合わなかった。
施設に入っていた父は、朝食の後、ちょっと休むと言って横になって、そのまま逝ってしまったのですが、事故扱いになってしまい、遺体は警察に搬送され、遺体保存袋にすっぽんぽんで入れられ、検死が済むまで何も出来ない状態。葬儀どころか、お通夜の段取りも出来ず、検死を待つ間も「あんなにすっぽんぽんで袋に入れられたままは可哀想だ」と泣く母を慰めながら、泣きたいのは自分の方だと思っていました。
その後、手配やなんやらで、いっぱいいっぱい。
何もかも良い子ちゃんがやらねばならなかったのです。泣く暇なんて無かった。泣くより前にやるべき事がてんこ盛りだったのです。
葬儀が終わった後、入居していた施設を退去せねばなりません。荷物の整理も、家具の移動も、結局一人で行いました。友人の工務店の軽トラックを借りて、10何年かぶりにクラッチ操作をしました。いざとなると何とかなるのね。無事にトラックを返して、母の車で自宅に戻ったら、腰が抜けました。
一週間実家にいて、色々な手配を済ませ、役所関係の手続きも済ませ、戻ってきましたが、あの頃の記憶はうっすらとしかないです。
その後、またまた大変な目に遭うのですが。
3月25日。三回忌です。